正徳元年(1711)、小倉藩主・小笠原忠雄は上毛郡川底村の廃絶していた古刹を赤坂山に再興し、東北山延命寺と号した。
背後に足立山を控え、眼下に企救の海を抱くこの地からの眺望は素晴らしく、寺の座敷からは遠く長門の海に浮かぶ島々や大里の海岸に連なる数十町の松原が望まれた。
また藍色の海原には帆船が絶え間なく行き来し、景色の移り変わりを楽しむことができた。
殊に城山や挿頂山(風師山)に差し出る月の風情は宿に帰ることさへも忘れるほどの景観であったという。
延命寺は小倉城の鬼門守護の霊場でもあったが、特に忠真の側室・永貞院の信仰が篤く、千体の地蔵尊を寄進している。
しかし、慶応2年(1866)の長州との戦いで境内は荒れ果て、明治初年に建物は解体され、廃寺となった。
後にこれらの仏像は、福聚寺や萬福寺の管長を務めた紫石が、赤坂山の下に黄檗宗延命山観音寺を創建し、安置した。
現在の延命寺がその寺である。